Wed, 18 Jul 2018

眠り姫

志賀鷗文

 

[1]

彼女の生白い左腕は布団から伸び、軽く内に曲がった細い手首から口元でやわらかく握られた指は、その眠りの深さのあかしと思えたが、血でほんのりと色づいた指先の階段に、ひとつ頭を出している小指の角がぴくりと一瞬動いたような気がして、私は思わず息を呑んだ。

今にも彼女の目が開くのではないかと思うと気が気でなく、耐えられなくなった私は目を瞑る。
――呼吸を落ち着かせ耳をすますと、規則的に刻まれる時計の音と、乱れた私の鼓動に混じって、静かな寝息が聞こえてくることに、ひどく安堵する。
恐る恐る目を開いて、私は改めて彼女に向かい合った。

先程と寸分違わぬ姿で、彼女は眠っていた。その白さも相まって、私は兄が通う学校でいつか見たデッサン用の石膏像を思い浮かべていた。
いや、彼女は生きている。それは想うまでも無く自明の理であるはずだったが、そう想わずにはいられなかった。

右向きに横寝した彼女の顔には、耳に掛かりきらず僅かに浮いた黒髪が、頬にそうように流れている。
毛先が指す方を見ると、珊瑚色の唇が、小さいながらも確かな存在感を主張していた。
その上で縫い合わせたように閉じられた両の目には、黒々としたまつ毛がぴったりと生え揃っている。

私はそれを見て何を思うわけでもなく、ただただ見ていたかった。
きっとこの場所にいるのが私でなくとも、同じように見とれてしまうのだろう、と思った。

医務室に二つ並べられた簡易なベッドと、その空間を仕切るカーテンだけが、この異界を作り出していた。
年月を経て少し白さのくすんだカーテンは、彼女の白磁の肌をより一層引き立たせているように見えた。

――彼女はいつも右を向いて眠る。
だからこうして隣にある左側のベッドに入り、彼女の方を向けば、いつも向かい合う形になった。

常駐の養護教諭が医務室からいなくなるこの時間には、こっそりとここへ忍び込んで彼女を見て過ごすことが、私の密かな愉しみになっていた。
褒められた行為ではないことは分かっていたが、言いつけは必ず守ってきた私でも自制しきれない衝動が、毎回私の足をここへ運ばせていた。

これはきっと、恋や憧れではない……。
もっと美しく、恥ずべき感情がそうさせているのだと訴える私の自意識も、こうして彼女を目の前にするとどこかへ吹き飛んでしまう。
我を忘れるという言葉の真意を、私は彼女のおかげで知れたような気がしている。

再び彼女を見る。
夏用の薄い掛け布団は、彼女を肩口まで覆ってなお、うっすらとその身体の曲線を描き出していた。
シーツと枕に、軽そうなその身体の重みの分だけ沈み込んで、傾いた首の生え際や、眉に掛かった前髪のほつれさえ、触れればそこからぼろぼろと崩れ落ちてしまいそうな程、繊細なものに思えた。

ちらりとカーテンの隙間から時計を見る。もう教室へ戻らなければならない……。
予鈴が鳴る前に、私は音を立てないよう細心の注意を払い、仕切りのカーテンをゆっくりと元に戻して医務室を後にした。

 

[2]

 

翌日。
授業を終え、食堂で食事を済ませた私の頭の中は既に彼女のことでいっぱいだった。
未だ名前も知らない彼女を、私は今日何度思い出しただろうか。
ひどい時には、鉛筆を持つ自分の指先をふと目にした瞬間に、彼女のやわらかく折れ曲がった指が重なって鮮明に思い出されることもあるほどだった。

彼女のことは、よく知らない。否、知りたくないのかもしれない。
養護教諭の小山先生に一言聞けば分かることなのだ。
それをしないのはきっと私が、まだ彼女に幻想の中で眠り続けていてほしいからだろう。

知らないままなら、幻想は幻想のまま、夢が覚めることはない。
――彼女は夢を見るだろうか。

一階の長い廊下を進むと、お喋りに興じる生徒たちの声も聞こえなくなり、誰の姿もない静かな空間に変わってゆく。
窓からは少しひんやりとした風が足元に流れ、静けさと相まって、一歩ずつ日常から剥離していくような感覚を覚える。
突き当りを曲がり、使われていない部屋を二つ横目に流すと、「医務室」という古ぼけた名札が掲げられている部屋にたどり着く。
私はいつものように人の気配が無いことを確認して、静かに引き戸を開けた。

静謐な空気。消毒の匂い。
包帯やガーゼの白の中に、ピンセットの銀色がきらめいて見える。
そっと仕切りのカーテンに手をかけ中を見ると、彼女はいつものように眠っていた。

私はゆっくりと左のベッドに腰を掛け、しばらく彼女の様子を眺めてから、添い寝をするようにそのままベッドへ横たわった。
世界が横向きになり、床は近づいて、天井は遠くなる。
こうすると、見下ろしている時よりもずっと、彼女を近くに感じる。

手を伸ばせば触れられる距離にある無防備な顔。
視線というのは人の意識に届くと聞いたことがあるけれど、眠っている人でもそれは同じなのだろうか。
私は次第に早くなる心臓を彼女から隠すように、掛け布団を胸元まで引き上げた。

熱がこもる。
風邪を引いた時のように、自分の吐息が熱を帯びている。布団の下にある肌の表面がジリジリと熱い。
冷たげな部屋の中で、私はひとりのぼせていた。
熱に浮かされた頭はぼうっとして、視界がぐらりと傾き意識が遠くなる……。

 

[3]

 

――薄く、ぼんやりと視界に光が戻ってくるのを感じてはたと気づく。
いつの間にか眠ってしまったらしい。
何分経ったのだろう。午後の授業がもう始まっているかもしれない、もしそうなら面倒な事になる。
そう瞬時に思考が回ったものの、急いで起き上がろうとして、身体が動かない。
金縛り、というのとは違う気がした。まるで身体そのものが、私の管理する所から離れてしまったように、言うことを聞かなかった。
視線を這わせ隣のベッドを見ると、そこに彼女の姿は無かった。

「ねえ」
降り掛かってくる声。

「あっ」
声がした足元の方を見ると、私のベッドの脇に「彼女」が立っていた。
無造作な立ち姿。自然に伸びた髪。
見慣れた顔と一つだけ違うのは、その黒くて丸い両目がしっかりと開かれて、こちらを見つめている事だった。

「あなた、どうしてここに?」
相貌に相応しく、透明感のある澄んだ声だった。
しかし今はそれが、私には鋭利なガラスのように感じられた。

「ベッドを借りていたら眠ってしまって。今は、起き上がれないのです……貧血かしら」
とっさに平静を装ったものの、芝居じみた台詞だと自分でも思った。
「動けないの?」
「ええ。」

「先生を呼んできましょうか?」
抑揚のない声。
「いいえ、きっとすぐ治りますから」
優しい子なのだ、と思いかけ、なにか違和感が引っかかる。
この子は私が目覚めるまで、ずっとそこで立って待っていたのだろうか……?

「もし、治らなかったら」
「え?」
「治らなかったら、どうなさるの?」
「そんな……」
そんなことはないだろう。
そう言いかけるが、確かに私の手足は切り落とされたように動かなかった。
経験したことの無い感覚。言いようのない不安。

「治らなかったら、あなたはこのまま」
「……?」
「このまま死ぬまでベッドの上で過ごすのでしょう?」
ぞっとしない事を言う彼女に、私は眉を顰めた。
「まあ怖い、ほんの冗談ですわ」
口元に手を当て、くすくすと笑う彼女。
なるほど、意地悪な子だ。
そう思えば、私を起こさずにそばで待っていた事にも得心が行く。

私は意地になって、渾身の力を込めて上体を起こそうとした。
しかし、まるで神経の命令が身体に届く前にどこかへそれてしまったように、私の身体はびくともしなかった。
冷や汗が、首筋を伝う。

「ふふっ、お手伝いしましょう」
彼女はそう言って少しいたずらな笑顔を見せると、膝立ちになって私のベッドへ乗り上がった。
「結構です……」
強がってそう言った私の言葉を意にも介さない様子で、彼女は私の上に跨るような格好になる。
折れ曲がったスカートの襞の端をちょこんとつまんで、露わになった白い太腿を少し隠した。

「さあ、お気張り遊ばせ」
馬乗りになって、巫山戯た言葉でいかにも可笑しそうに笑う彼女。
こんなに性根の曲がった、はしたない真似をする子はこの学校にいただろうか。

「いい加減にして、これでは起き上がれないわ」
「やっぱり、動けないのですね?」
「何度も言わせないで」
「そう……でしたら――」

語気を荒げた私に、彼女は言葉を含んだまま、前かがみになって顔を近づける。
空気は一変し、ピンと張り詰めた冷たい緊張感が辺りを包んだ。

彼女の黒い髪が、自らの重みでさらさらと肩からこぼれて揺れた。むき出しの美しさだった。
それだけで、ついさっきまでの嫌悪感を塗り替えてしまう。
端正な顔が鼻に触れそうなほど近づくと、むせ返るような甘い匂いを纏った空気が私を包み込んだ。

「――ずっとここにいてくださる?」
消え入りそうな、吐息と区別のつかないような微かな声で、彼女はそう言った。

言葉を失った私の脱力した腕を、彼女の手がさするように撫でる。
鉛筆を持った手。重ねて思い出した指。あの指が、私に触れている。
指先は肘の内側をすべり、筋にそって登り、手のひらに到達する。
指と指のあいだに、彼女の白く細い指が一本ずつ、すべり込んでくるのを感じた。

肺から送り出された空気が、そのまま口から吐き出されていく。
やめて、という言葉が、声にならない。
それは動かない身体と同じように抗えぬものなのか、それとも私の意志が――。
――本当は、やめてほしくないと思っているのか。

心臓は羽ばたくように脈打っている。
額が触れる。彼女の低い体温が伝わってくる。
真っ直ぐ目を見ることが出来なくて、私の視線は泳ぎ続けている。
鼻先が触れる。彼女の息遣いが聞こえる。
私の荒い息を感じさせたくなくて、吐き出さずに堪えた息で溺れそうになっている。

優しく指を絡ませたまま、彼女は目を閉じ、ゆったりとした緩慢な動きで、あの珊瑚色の唇を、私の唇へ押し当てた。
互いのふくらみはやわらかくつぶれて、触れ合った部分だけがぴりぴりと痺れる。
締まった喉から無理に空気を吐き出したような、情けない声が漏れて、あまりの辱めに私は強く目を瞑った。

感覚だけの存在になった身体に、彼女の身体が重なる。
ぴったりと付いていた唇が動くと、水気のある音が内側から鼓膜へ届いた。
力の込もっていない、丸みを帯びた温かな舌が、私の中に入ってくる。
私はただ玩具にされる人形のように、それを受け入れる事しか出来なかった。

――こぽこぽ。
一番熱いところから、境界が溶けてゆく。
もう、どこが自分の頭で、どれが自分の手足だったのか、わからない。

――こぽこぽ。
耳元から、泡が吹き出るような音が聞こえてくる。
気がつけば、枕もシーツも、濡れたようにしっとりと冷たい。
背中が、冷たい。

溶け合ったまま、私の身体は彼女の重みでどんどん冷たくなるベッドに沈み込む。
シーツは水になり、私は水中花のように、ベッドの下に底抜けに広がった透明な水の中へ落ちてゆく。
冷たい水の中で、彼女を感じられる場所だけが、確かに熱い。

私はぼろぼろと崩れるわたしの欠片を置き去りにしながら、螺旋を描いて深みに沈む。
背中に回っていた彼女の左手が、私の襟足をくしゃりとかき乱すと、私の口から大きな泡が吐き出されて上っていった……。

息が苦しくなる。
目を開けると、水面は既に遥か遠く、上方でゆらゆらと光を反射していた。
もがこうとしても、もう私の身体は動かない。
歪んだ水のレンズが映した世界に、蓮の花が咲いている――。

「……!」
分厚い水の層の向こうから、誰かが呼ぶ声が聞こえた。
もう応える気力も無い私の頭の中に響く声は、徐々に大きくなっていく。
「……て……!……!」
今は、眠らせて欲しい。
そう願う私の心とは裏腹に、一際大きな声が響いた瞬間、全身に感じていた冷たい水の感覚が消えた。

「しっかりして!私の声が聞こえますか!?」

「ごほっ……」
肺に吸い込んだ水を吐き出すように、私は咳き込んだ。
ひゅう、と音を立てて、肺一杯に空気が送り込まれる。
まだぼやけた視界には、白いカーテンとベッド、そして私に呼びかける学校看護婦の、鬼気迫る顔があった。
ここは、医務室だ。水の中ではない。

「どうしてこんな……ゆっくり息をして。とにかく、タオルと着替えを持ってくるから、ここで待っていてね」
カーテンを翻して、看護婦が足早に出ていく。

冷え切って震える身体を、自分で抱きかかえる。
私の眠っていたベッドも、着ている制服も、びっしょりと水浸しになっていた。
頭が割れるように痛い。
今は何も考えられない。
ただ、思うように動く自分の肉体が確かに存在するということを、何度も肩をさすって確かめ続けた……。

 

[4]

 

三日後。

休日を開けた学舎は、朝からどこか落ち着かない空気に包まれていた。
先生方や、険しい顔の大人たちが何人も出入りして、普通ではない雰囲気に、生徒たちも浮足立っている。

お喋り好きそうな子たちが揃って口にするには、なんでも校舎裏の池で少女の遺体が発見されたという。
詳しい事は朝礼で話されるだろうが、ひとつ不思議なことがあるそうだ。
少女はこの学校の制服を着ていたというが、生徒全員の親に確認を取っても、行方不明になった生徒は確認できなかった。
その少女が本当にこの学校の生徒だったのか確証が得られないと言うのだ。

裏庭の池、という言葉に頭の奥がずきりと痛む。
水、光、蓮の花。断片的なイメージだけが、私の頭の中を通り過ぎていく。

私は気持ちを落ち着けるために、騒がしい教室を離れ手洗い場へ向かった。
白いハンカチをくわえて、蛇口をひねる。
勢いよく流れ出た透明な水に、一瞬心臓を掴まれたような動悸を感じ、深呼吸する。
洗いだ手と指についた水滴を丁寧に拭き取って、ようやく落ち着いた。

鏡に映った顔を見る。
少しばらけた前髪を整え、やせた細い指で手櫛を入れる。
耳に掛かりきらなかった黒髪が、僅かに浮いて頬へ流れた。

 

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絵を描いてます スタジオポラリス(@StudioPolaris77)所属 「星詠みと流星のステラ」原画/イラストを担当させて頂いております。VR/3DCGモデリング始めました。VRchatID:shiga_oubun
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