Mon, 17 Dec 2018

『誰が林檎を食べたのか?』第一話

作:sig./時雨
絵:志賀鷗文

チャイナの国旗、イタリア・ルネサンスの絵画、あるいは林檎。

たとえばわたしが自殺を試みて、23階のこの寝室から眼下に広がる暗い街に身を投げ出し、およそ9.8m/s²の重力加速度の影響を受けた挙句はげしく地面に衝突したとそう想像したとき、それらを想起させるようなルージュの体液がゆったりと地面を濡らしていくはず。折れた骨はあちこちから皮膚を突き破り、腸や胃はめちゃくちゃに飛び散って、そして肉片となったわたし﹅﹅﹅があたり一面に偏在することになるだろう。

 

──だけど、それでも、わたしが死ぬことはない。

 

なぜ、ってこのセカイのわたしはデータに過ぎないから。本当の肉体は、外の世界で眠ったまま。わたしだけじゃない、みんながそう。
仮想空間生成モジュール《M.D.M.マダム》が生み出したこの世界では、たとえビルから飛び降りたとしても、異常対応装置デッドマンブレーキという救いの手が差し伸べられる。

そう、それは、言うなれば強制的な慈悲だ。
落下予測地点付近の重力の演算をオフにしたり、本人を元いた位置に復元したり、時と場合によって、さまざまな方法でわたしたちを死の淵から救う救世主。わたしの想像のように、めちゃくちゃになるまで放っておいてくれることなんて、まずあり得ない。
それでも自らの意思で確実に命を断ちたいのなら、ただ《M.D.M.》を管理する統制省を怒らせればよかった。そのためには、ただ電票を使い切ればいい。世界のリソースを使い果たした人間は、節制省の役人によって《M.D.M.》から徹底して削除される。外の世界で眠っている人間もろとも。

もっとも、そこまでして死にたいなんて思う人は稀だ。だから、大抵が寿命まで──それも《M.D.M.》の副次的なメリットによって前時代的なそれよりもはるかに長く──生きることができる。

外世界と大差なく創りこまれたこの世界は、だから死の扱いだけが歪だった。エゴと少しの優しさで、死は元の形もわからないほどに上塗りされている。
みんな、その優しさで少しずつおかしくなっているんだ。
死ぬことがない、その安堵こそが、市民から意欲を奪い、このセカイに暗い影を落としている。

働く必要もなく、差し迫ったタイムリミットもない。幸福奉仕省で快楽にすがりつく大人たち。

そこから逃れるためには────

「みんな死ななきゃ駄目なんだよ、たぶん」

無意識に漏れた呟きは、思ったよりも掠れていた。独り暮らしの弊害だ。声帯が震え方を忘れてしまったかのように演算装置が振る舞う。余計なお世話だ。
それからふと、わたしは遠い場所にいる友人リリーを想った。豊かに光を含んだ金髪を肩まで伸ばし、どこか冷めたような、普通の人なら持ち合わせているはずの感性というものがすっかりそのまま抜け落ちたかのような碧い瞳の少女。
かつて彼女がわたしに告げたその言葉も、わたしが口にすると、虚しく溶けて消えていく。

誰にも届くことはない、わたし以外、誰にも。

わたしの影響力は《M.D.M.》と比べるとどこまでも小さく、わたしにできることは何もなかった。だから、すべてが始まった15歳のあの日、いま思えば、わたしは確かに救われたのだ。

[01]

 最後に雨が降ったのはいつだっただろうか。

降り始めの10分間だけ演算装置が再現する錆びた金属のような──旧世界ではペトリコールと名付けられていた──匂いを嗅ぎながら、わたしはそんなことを考えた。確か、幸福奉仕省からの帰り道、計算領域と引き換えに電票を貰った日だったはず。すっかり雨で濡れてしまったから、よく覚えている。5ヶ月くらい前のことだ。
統制省の気象通知通り、午後四時三十分にはすっかり外は晴れ上がり、寝室のカーテンのわずかな隙間から夕陽が射し込んでいた。
雨が降った日は、父親が帰ってくる。だからその日は外出せずに、わたしは一日中寝室で余剰演算を避けて、じっと電票の節約に務めていた。

わたしは、わたしにうんざりだった。無責任に《M.D.M.》の文句は言うけれど、そのくせ誰よりも世界に従順。やりたいことがあるわけでもなく、怠惰で、純粋で、そんな如何にも統制省が好みそうな存在。それがわたし。
わたしは、わたしと他の人とを分け隔てる何かが欲しくてたまらなかった。同年代の子どもたちは、近所のあちこちにある幸福奉仕省の分署に頻繁に立ち寄って、計算処理領域の提供と引き換えに幸せな夢を楽しんでいた。

それを横目にわたしは、1ヶ月に1度の提供義務以外の時間を、ほとんど毎日寝室に籠もってデッドメディアを読み漁って過ごしていた。

ラ・ロシュフコー、アルチュール・ランボオ、それから聖書。

わたしを蝕むひりつき﹅﹅﹅﹅の答えは、すべて旧世界に生きた人間が教えてくれた。父が節制省の役員だったから、地上放棄より前の文献データも父に頼めばなんでも手に入った。
たぶん、わたしの狡さはその豊かさにあったのだと思う。《M.D.M.》なんて糞食らえ、そんな怒りはあったけれど、わたしはどうしようもなく臆病だった。結局この世界に対して何かができるわけじゃなくって、自己完結した世界でただ時間だけが過ぎていった。

[02]

 突然、何かが割れる音がして、わたしはベッドから飛び起きた。わたしは聴覚に割り当てる電票を増やし、耳を澄ます。間違いない、父だった。
わたしの身じろぎに反応して、《A.C.S.》がスリープモードから目覚めていた。宙に浮く半透明のUIを手早く操作して、部屋中に高く積まれた書物を消去していく。
記録メディアをこうやってわざわざ本の形に出力するのはタダじゃない。節制省の役人だった父さんは電票の使い方にすごく厳しかったから、こうして文献データを古めかしい旧式メディアに電票を使ったなんて物証を残しておくわけにはいかないのだ。
この世界では、誰もがこの端末なしには暮らせない。

わたしたちと世界を繋ぐ架け橋。これさえあれば、指先一つで着替えは済むし、あらゆる買い物ができる。もちろん、それだけ電票を消費することになるけど。
わたしは、ほかに無駄遣いの痕跡がないか念入りに確認した。くすんだローズのリップ、スイートムスクの香水もしっかり除去して、それからドアを開けた。

あれほどマナーに煩かった父なのに、玄関には靴が脱ぎ散らかってあった。明かりも消えたままだ。わたしは少し嫌な予感がして、端末を弄って靴下を履いた。これで、多少足音の発生を抑制できるはず。リビングへ繋がる扉に耳を当てながら、そっと部屋の様子をうかがった。
板が軋む音と縄が擦れるような、耳慣れない音が聞こえる。

────やっぱり、何かがおかしい。

わたしは急いでリビングの扉を開け放つ。

逆光。

眩しさのあまり視線を足元に向けると、花瓶だったものが転がっていた。磁器の白さを曝け出した小さな欠片が転々としていて、その先には赤い花びらが散らばっていた。
自殺だ!

一気に心拍数が跳ね上がる。自殺だ。これは自殺だ。デッドメディアの中でしか見たことのない光景に、わたしは正気ではいられなくなった。
父は、わたしの記憶のなかのそれよりずっと色白で、細い腕をしていた。
わたしのことなんて眼中にないのか、両腕で持ち上げた麻縄に夢中だった。まるでその輪が自身を確実に死へ導いてくれるのか、品定めでもするかのように。
父が首を吊ろうとしている。ただそれだけのことなのに、血液が沸き立つような感覚が聴覚を塗りつぶした。わたしの環世界から一切の音が失われていく。

わたしは現実と虚構の区別がつかなくなっていた。

たぶん、止めようとしたら、すぐにでもあの輪に首を通してしまう。わたしはグッと息を呑んだ。それから、大丈夫、大丈夫なんだと自分に言い聞かせる。
────だって、すべてが虚構なんだ。
床の木目も、椅子の軋む音も、花瓶の破片も、散らばった花弁も、差し込む夕陽も、埃も、部屋のすべてが──わたしたちの肉体ですら──外世界を模倣した偽物に過ぎないんだから。

[03]

 視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。いわゆる特殊感覚や体性感覚といった旧世界の産物。
かつてカントが我々の中に備わっているといったそれらは、いまやわたしたちの外にある。
前頭連合野の計算領域をわずかに提供し、《M.D.M.》の維持と役人の豊かな生活を助けるかわりに、わたしたちは提供した計算領域にふさわしいだけの市民階級と電票を得ることができる。その電票を使うことで、わたしたちは初めてセカイから感覚を取り戻せるのだ。
父さんはことあるごとに「知識欲を満たすより、食欲中枢を満足させるより、何よりもまず五感の再現にリソースを」と執拗に繰り返していた。わたしがこっそりアクセサリーでも購入しようものなら大目玉。小さい頃はそれがただの小言というか一々難癖をつけられているようにしか感じなかったけれど、人並みに反抗期を迎えてその時期を乗り越えると、その意味もまた違って解釈できる。
13歳になった頃、低級市民に配給される電票の量が著しく減った時期があった。もともと電票の配給量が少ない低級市民の間では、嗅覚の再現を諦めなければやりくりができないほどだったらしい。そこから始まった感覚削除という小さな流行は、思わぬところで広がりを見せた。中流階級以上の啓蒙活動家が「五感を削って、それでも人間に残った何かがあるはずだ。それこそが自分を自分足らしめるものだ」って、扇動しだしたらしい。あらゆる感覚を削除したせいで動くことすらままならず、月に一度の計算領域提供義務すらこなせなくなった幾人もの市民が、節制省に一斉に削除された事件があった。

だから、五感を一度だって失っていないわたしは、自分が特別なんだという自負があった。
それが、わたしをわたし足らしめている大きな要素。たとえ家族がいなくても、たとえわたしがデータだけの存在であっても、きっとわたしは誰よりも人間に近いと信じることができる。
母親は7年前に姿を消してから一度も帰ってきていない。内世界ではこうした失踪事件は珍しくなかった。統制省や節制省の提示する生活規範から少しでも逸脱した市民は、彼らによってこの世界から削除される。唯一の例外は、対象となった人物が、脳に膨大な計算領域を保持している場合だけど、それは外世界でいうところの勲章みたいなもので、ただの一市民に過ぎない母親が該当するわけがなかった。

──ひょっとしたら、このふざけた世界から外世界へと脱出できたのかもしれない。そんな希望を、わたしはすぐさま首を振って追い出した。どのみち、もう会えることはないだろう。父が家に寄り付かなくなったのも、その直後からだ。帰ってくるのは今日みたいな雨の日だけ。わたしはいっそう寝室に引きこもりがちになっていった。

[04]

 一度、二度、と父が強く縄を引くたびに、梁から埃が生じ、筋となった橙の光芒の中でチンダル現象を引き起こす。その美と背徳とが交差する光景に、わたしはただ見惚れていた。
父は地上に生息するキリンを思わせる動作で緩慢に首先を屈めると、終に頭部を輪に潜らせた。
その一瞬、父さんと目が合ったような気がした。生気なんてまったくない、まるで黒いインクが滲んだような瞳。人間として大事な何かを全てどこかに置き去りにして来たかのような、そんな空虚な瞳だった。きっと目が合ったと思ったのはわたしだけで、父さんは、きっとわたしなんかみていない。これまでそうだったように。

だというのに、

 

「すまなかった、ミモザ」

 

「────え」

それから父は機械的な動作で足場を蹴り飛ばす。
重量にして56kg。

およそ549Nの力が、一気に父の頚動脈洞を締め上げた。
足場を失ったことで父の軀が一度沈み、その反動で跳ね上がる。そうやって数度上下に跳ねた後、それきり父は動かなくなった。

 

「昔はね、ミモザ。個人情報って言葉は別の意味を持っていたんだ。例えば本名とか、住所とか、職業とか────、個人の外にあってその人を定義するのもの、それが個人情報だったんだ。それがいまじゃ、あなたの心臓や、身体中を廻る血管、皮膚、脳みそ、それどころか思考まで、すっかりデータ化されちゃった。あなたたちの内側すべてが《個人情報》になった。個人情報はつまりあなたの存在そのものになったんだよ」

 

あぁ、リリー。どうかあなたの言う通りでありますように。

この世界では、誰も自発的に死ぬことができない。
譬え首を吊って、動脈を切り刻んで、干潮時に水辺で眠ったとしても、ここでは死ぬことできない。わたしのこのカラダは、リリーの言う通り、わたしたちはただのアルファベットと数字の羅列なんだ。本当の肉体は外世界に眠っていて、とても堅牢な建物に守られている。どれだけ《M.D.M.》のこの軀を傷つけたところで外世界にある本当のわたしたちは傷つかない。

だから、というのは言い訳に聞こえるかもしれないけれど、どこかできっと父は戻ってくる、ってわたしは信じていた。あの謝罪の意味もまた戻ってきてから聞けばいい、そう思っていた。
それから2時間後に統制省の役員が、空っぽになった父親だったものを処理しにやってきた。それまでずっと座り惚けていたわたしは、ようやく父親がもう戻ってこないことを理解したのだった。

 

謝罪の意味は、いまでもわからないままだ。

 

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